東京地方裁判所 平成6年(ワ)25275号 判決 1999年12月20日
原告
高橋都江
外二名
右三名訴訟代理人弁護士
井堀周作
被告
株式会社白洋舎
右代表者代表取締役
五十嵐信保
右訴訟代理人弁護士
大川實
同
笠原慎一
被告
有限会社ふじい管工店
右代表者代表取締役
藤井堯
右訴訟代理人弁護士
小野幸治
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
一 被告らは、各自、原告高橋都江に対し、金四六八五万二〇三七円及びこれに対する平成六年三月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告らは、各自、原告高橋卓及び同高橋旭に対し、各金二三四二万六〇一八円及びこれらに対する平成六年三月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、被告株式会社白洋舎(以下「被告白洋舎」という)のクリーニング工場内汚水槽の清掃業務に従事中死亡した、高橋(以下「亡高橋」という)の相続人である原告らが、亡高橋の死因が有毒物質(テトラクロロエチレン又は塩素ガス)の中毒死又は中毒による意識喪失後の溺死であることを前提に、被告白洋舎には、右汚水槽には、有毒物質が存在するという構造上の瑕疵があるとして、民法七一七条の工作物責任により、また、有害物質の残留があることを説明しなかった責任があるなどとして民法七〇九条により、また、被告白洋舎から請け負った清掃業務を亡高橋の所属する訴外有限会社むかいサービス(以下「むかいサービス」という)に発注した被告有限会社ふじい管工店(以下「被告ふじい管工店」という)には、右同様有害物質の残留を説明しなかった責任があるなどとして民法七〇九条により、各々損害賠償(両者は共同不法行為の関係)を求めている事案である。
これに対し、被告白洋舎及び被告ふじい管工店は、亡高橋の死因は酸欠であり、有毒物質による中毒を前提とする原告らの主張は理由がないと反論している。
一 争いのない事実等(証拠等により認定した事実は末尾に証拠等を掲げた)
1 当事者等
亡高橋は、平成六年三月一七日当時、むかいサービスの従業員であった。
原告高橋都江は亡高橋の妻であり、原告高橋卓及び原告高橋旭は亡高橋の子である。
被告白洋舎は、クリーニング業を業とする会社であり、被告ふじい管工店は、給排水等の設備工事等を業とする会社である。藤井堯(以下「藤井」という)は、被告ふじい管工店の代表取締役である。
2(一) 被告白洋舎は、平成六年二月二五日ころ、千葉県千葉市美浜区新港<番地略>所在の被告白洋舎千葉支店工場内の汚水槽(以下「本件汚水槽」という)の清掃業務(以下「本件清掃業務」という)を被告ふじい管工店に発注した。
(二) さらに、被告ふじい管工店は、平成六年三月一一日、むかいサービスに本件清掃業務を発注した。
(三) 本件清掃業務を請け負ったむかいサービスでは、取締役向井哲夫(以下「亡向井」という)及び亡高橋が、平成六年三月一七日(以下、特に日を特定することなく時刻だけを記載しているのは、全て平成六年三月一七日のことである)、本件清掃業務のため、超高圧洗浄車(水を高圧で噴射し、その圧力で壁面等に付着した汚れを落とす装置を備えた自動車)を用意して、右被告白洋舎千葉支店工場に赴き、午前一〇時三〇分ころ、本件清掃業務に着手した。
3 ところで、被告白洋舎千葉支店工場(新工場)は五階建ての建物であり、一階西隅に南北約6.3メートル、東西約4.8メートルの広さのボイラー室が設けられていた。ボイラー室の中の北隅付近に直径約五〇センチメートルのマンホールがあり、マンホールの中は、本件汚水槽となっていた。本件汚水槽は、南北約3.8メートル、東西約1.6メートル、高さ1.6メートル(容積約七立方メートル)の大きさであり、中央付近に支柱一本がある(甲一三の2の3、乙二五の2)。
4(一) 被告白洋舎千葉支店一階の開発課の部屋で仕事をしていた同社の従業員車塚昭(以下「車塚」という)は、午後四時一五分ころ、亡高橋から助けを求められた。車塚は、亡高橋に同行してボイラー室に行ったところ、マンホールの中で亡向井がマンホールの縁に両手をかけて立っていた。車塚と亡高橋は亡向井を引き上げようとして、二人で亡向井の手を引っ張ったが亡向井からは全然反応がなく、二人の手から亡向井の手首が抜けて、亡向井は本件汚水槽の中に沈んだ。
(二) 亡高橋は、本件汚水槽内に沈んでしまった亡向井を引き上げるべく、車塚に対し、「俺が中に入って持ち上げるから引っ張ってくれ。」などと行って本件汚水槽内に入ったが、その直後、「おかしくなった。」などと体の不調を訴えて両手を上げて立ち上がった(乙二五の2)。
(三) 車塚は、亡高橋の両手首を引っ張ったが、亡高橋の反応はなく、応援に駆けつけた被告白洋舎の従業員谷戸茂(以下「谷戸」という)及び同佐藤弘と共に引き上げようとしたが、重いため引き上げられないでいるうち、谷戸が応援を求めに行く間、亡高橋は、車塚らの手から滑り落ちてしまった(乙一九、二五の2、証人車塚)。
5(一) 午後四時三九分に被告白洋舎千葉支店工場内に到着したレスキュー隊は、午後五時ころ、空気呼吸器を装着して本件汚水槽内に入り、マンホール直下の本件汚水槽内の汚水面上で酸素濃度を計測して約六パーセントの値を確認し、午後五時一〇分ころ、亡向井及び亡高橋の救助を行った(甲八の10、乙一一の2)。
(二) 亡向井及び亡高橋は、午後五時一〇分ころ、レスキュー隊により、本件汚水槽から搬出されたが、既に心肺停止状態であった。亡向井は福生会斎藤労災病院へ、亡高橋は千葉県救急医療センターへ搬入されたが、亡向井は病院到着時の午後五時四〇分ころ、亡高橋も午後七時四〇分ころ死亡が確認された(以下、右死亡事故を「本件事故」という)(甲八の10及び25、一二、乙一一の2、弁論の全趣旨)。
6(一) 千葉県救急医療センターの伊東範行医師(以下「伊東医師」という)は、亡高橋の死亡診断の結果、病名が「酸欠、有機溶剤中毒の疑、化学熱傷、低体温」とする死亡診断書と、直接死因が「酸欠死」、その原因が「有機溶剤中毒(疑)」とする死亡診断書を作成した(甲八の24及び25)。
福生会斎藤労災病院の千見寺勝医師(以下「千見寺医師」という)は、亡向井の死体を検案し、死因が「酸素欠乏による窒息疑」とする死体検案書を作成した(甲一二)。
(二) 千葉県警は、午後九時五〇分ころから一〇時五〇分ころまでの間、亡高橋につき、伊東医師立会の下、実況見分を行った。このとき、亡高橋の顔面は暗紫赤色を呈し、眼球結膜に充血が、眼瞼結膜に溢血点が存在し、口唇、左右の手の爪床がチアノーゼを呈していた。亡高橋の身体各部に致命的外傷、骨折等はなかったが、側腹部及び背面部に暗紫赤色の変色部が存在し、右部位は力を加えると容易に表皮剥離した(甲一三の2の1)。
また、千葉県警は、午後七時二〇分ころから九時〇五分ころまでの間、亡向井につき、千見寺医師立会いの下、実況見分を行った。このとき、亡向井の顔面は暗紫赤色を呈し、眼球結膜に充血が、眼瞼結膜に溢血点が存在し、口唇がチアノーゼを呈していた。亡向井の身体各部に致命的外傷、骨折等はなかったが、背面左右の肩甲骨から腰部にかけてほぼ全面に表皮剥離があった(甲一三の6)。
7(一) 千葉県警は、午後五時ころから九時三〇分ころまでの間、本件汚水槽について第一回目の実況見分を行ったが、その際本件汚水槽内の汚水を採取し、これを科学捜査研究所(以下「科捜研」という)に鑑定依頼した。科捜研は、鑑定の結果、右汚水から一リットル当たり一三ミリグラムのテトラクロロエチレンを検出した(甲一三の2の3、一七の2)。
(二) 千葉県警は、翌一八日午前一〇時五二分ころから一一時四二分ころまでの間、本件汚水槽について第二回目の実況見分を行ったが、その際、本件汚水槽内の酸素濃度は一様に二一パーセントであった。また、第二回目の実況見分の際、本件汚水槽内の汚水を攪拌して汚水槽内の気体を採取し、これを科捜研に鑑定依頼した。科捜研は、鑑定の結果、右気体から濃度は不明であるが、テトラクロロエチレンを検出した(甲一三の2の3、一七の3)。
8(一) テトラクロロエチレンは、親油性で油脂類を溶かし易い塩素系有機溶剤であって、特有の刺激臭がある他、一定濃度以上になれば、不快感や眠気を生じ、濃度が高まるにつれ、吐き気、頭痛、精神混乱などを引き起こす作用を有する(乙一の3、一六の2)。
(二) 空気中の酸素濃度が、六パーセントから一〇パーセントの状態で持続している場合又は六パーセント以下の場合には、数回の呼吸で昏睡状態となり呼吸が停止し、六から八分後には心臓が停止する。また、空気中の酸素濃度が六パーセントから一〇パーセントの場合には、意識不明、中枢神経障害、痙攣、チアノーゼ等の症状が生じる(乙一二の5、三三の3)。
二 争点
1 亡高橋の死因は何か
(原告らの主張)
亡高橋の死因は、テトラクロロエチレン又は塩素ガスによる中毒死若しくは中毒による意識喪失後の溺死である。このことは、以下の事実から明らかである。
(一) 亡高橋の体に広範に化学熱傷があったこと、亡高橋の服を脱がせる際に伊東医師の手の感触から有機溶剤らしい物が服に付着していると感じたことなどから、亡高橋の死因は単なる酸欠によるものではなく、何らかの化学薬品が死因となっていることは明らかである。その原因となった化学薬品については、以下の二通りの可能性がある。
(二) 第一の可能性は、テトラクロロエチレンである。本件事故当時、本件汚水槽内の空気中にテトラクロロエチレンが存在した。このことは、本件事故後の実況見分で本件汚水槽内の液体及び気体からテトラクロロエチレンが検出されていること、亡向井が着用していた作業着からもテトラクロロエチレンが検出されたことなどから明らかである。亡向井は本件事故前に、本件汚水槽内に立入り、超高圧洗浄車を利用して水の圧力により内部の汚泥を除去する高圧洗浄を行った。このため、テトラクロロエチレンが拡散して気化し、亡高橋は、これを吸入し、死亡したものである(中毒死又は中毒による意識喪失後の溺死)。
(三) 第二の可能性は塩素ガスである。亡高橋は、ボイラー及びドレンタンクの洗浄作業後に死亡したのであるが、右洗浄排液である塩酸が本件汚水槽内に流入したため、本件汚水槽内に残留していた漂白剤と塩酸が反応して塩素ガスが発生した。亡高橋は、右塩素ガスを吸入し、死亡したものである(中毒死又は中毒による意識喪失後の溺死)。
(四) なお、被告らは、亡高橋の死因を酸欠と主張するが、本件汚水槽内の酸素量は、十分であること、本件汚水槽内には、鉄、バクテリア等の酸欠の原因となる物質が存在しないことなどから、不合理な主張である。
(被告らの主張)
亡高橋の死因は、酸欠によるものである。このことは、以下の事実から明らかである。
(一) 亡高橋は、亡向井を救出するために本件汚水槽に入ったが、その直後に意識不明となり倒れた。本件事故日の午後五時ころ、千葉消防局のレスキュー隊が、本件汚水槽内の酸素濃度を計測しているが汚水面直上付近では六パーセントであった。
(二) ところで、本件汚水槽には、洗剤、線維くず等が腐敗して汚泥として残留していたところ、右汚泥を攪拌すれば、汚泥内の物質が酸素を取り込み酸欠の状態となりうるところ、亡向井は、高圧洗浄などにより本件汚水槽内の汚泥を攪拌し、その結果、本件汚水槽内が酸欠の状態になった。亡高橋は、酸欠の状態にあった本件汚水槽内に入ったため、死亡した。
2 過失の内容
(原告の主張)
(一) 被告白洋舎の過失
(1) 死因がテトラクロロエチレンの場合
ア テトラクロロエチレンの有害性に鑑み、テトラクロロエチレンが大量に蓄積し、人体にとって極めて危険な本件汚水槽を設置した過失がある。
イ また、本件汚水槽には、多量のテトラクロロエチレンが存在していたのであるから、このような危険な施設の清掃を社外の業者に発注する場合には、その施設特有の危険については施設管理者が危険防止につき、右業者に説明、教育すべき義務があるにもかかわらず、亡向井及び亡高橋にその旨の告知、ガスマスクの着用など危険の説明をしなかった過失がある。
(2) 死因が塩素ガスの場合
ア ボイラー及びドレンタンクの洗浄排液の流入により塩素ガスが発生しうる構造を持つ本件汚水槽を設置した過失がある。
イ ボイラー及びドレンタンクを塩酸で洗浄すると、その排液が本件汚水槽に流入し、これと本件汚水槽内に残留する漂白剤が化学反応を起こして有毒な塩素ガスが発生し危険であることを認識し、又は認識すべきであり、ボイラー及びドレンタンクの塩酸による洗浄排液を本件汚水槽内に流入させない義務があるのにこれを怠った過失がある。
ウ さらに、本件汚水槽内部が、塩酸を含んだボイラー洗浄排液が流入すると有害な塩素ガスが発生し、危険な状態になることをあらかじめ亡高橋ないし亡向井に告知すべき義務を負うのにこれをしなかった過失がある。
(二) 被告ふじい管工店の過失
被告ふじい管工店は、本件汚水槽を含む被告白洋舎新工場建物の全排水設備の工事を設計、施工しており、本件事故の約三年前には、自ら本件汚水槽を清掃しているおり、本件汚水槽にテトラクロロエチレンが大量に残留、蓄積している事実、ボイラー及びドレンタンク洗浄後の排液が流入する事実を十分認識していた。被告ふじい管工店は、右事実を亡向井及び亡高橋に予め説明して本件清掃業務に立ち会う等工事の安全に配慮すべき義務を負っていたにもかかわらず、これを怠った過失がある。
(被告白洋舎の反論)
(一) 本件汚水槽内にテトラクロロエチレンが多量に残存することはない。
また、被告白洋舎は、被告ふじい管工店に本件清掃を一任する趣旨で発注したのであり、亡高橋が本件清掃を実際に実施することを知らなかったし、知り得なかった。
そうだとすれば、被告白洋舎は、亡高橋に対し、本件清掃の発注者として本件汚水槽に大量のテトラクロロエチレンが残存し、人体に危険であることの説明、告知する義務を負っていなかった。
(二) 被告白洋舎は、平成六年三月一七日、ボイラー及びドレンタンクを清掃していない。したがって、本件汚水槽に塩素ガスが発生する原因となる物質の流入があり得ない以上、被告白洋舎は、亡高橋に対し、ボイラー及びドレンタンクの塩酸による洗浄排液を本件汚水槽内に流入させない義務、本件汚水槽内部が塩酸を含んだボイラー洗浄排液が流入すると有毒な塩素ガスが発注し、危険な状態になることをあらかじめ亡高橋ないし亡向井に告知すべき義務を負っていない。
(三) また、右から明らかなように本件汚水槽には瑕疵はない。
(被告ふじい管工店の反論)
本件汚水槽内には、人体に有害なほどのテトラクロロエチレンは存在していないし、そもそも被告ふじい管工店は、本件汚水槽内にテトラクロロエチレンが微量ながらも存在することを知らなかった。
また、本件事故当時、ボイラー及びドレンタンクの清掃は、実施されておらず、塩素ガスが本件汚水槽内に発生しうる物質の流入はなかった。
そうだとすれば、被告ふじい管工店が、亡高橋に対し、本件汚水槽について原告らの主張にかかるテトラクロロエチレン及び塩素ガスの発生に関し説明する義務はなかった。
第三 争点に対する判断
一 争点1について
1 本件事故の状況
前記前提事実(4(一)ないし(三))に証拠(乙一九、二五の2、証人車塚)及び弁論の全趣旨を併せ考慮すると、亡高橋の本件事故時の状況は、次のとおりであることが認められる。
亡高橋は、本件汚水槽内に沈んでしまった亡向井を引き上げるために、車塚に対し、「俺が中に入って持ち上げるから引っ張ってくれ。」などと言って本件汚水槽内に立入り、一度しゃがんだ直後「おかしくなった。」などと体の不調を訴えて両手を上げて立ち上がった。車塚は、立ち上がった状態の亡高橋の両手を引っ張って救出しようとしたが、亡高橋からは何の反応もなく意識を喪失した状態であった。
2 本件事故直後の本件汚水槽内の状況
前記前提事実(5(一)、8(二))によれば、次の事実が認められる。
本件事故直後の午後五時ころ、本件汚水槽の汚水面の酸素濃度は約六パーセントであった。酸素濃度が六パーセントから一〇パーセントの状態が続いている場合には、数回の呼吸で昏睡状態となり呼吸が停止し、六から八分後には心臓が停止すること、酸素濃度が六パーセントから一〇パーセントの空気下においては、意識不明、中枢神経障害、痙攣、チアノーゼ等の症状が生じる。
3 亡高橋の遺体の状況
前記前提事実(6(二))に証拠(甲八の13、証人伊東)を併せ考慮すると、次の事実が認められる。
酸欠の症状としては、眼瞼結膜に出血が生じること、チアノーゼの症状が見られるのが特徴的であるところ、亡高橋の遺体の眼瞼結膜は溢血点が認められ、また、亡高橋の口唇、左右の爪床にはチアノーゼが認められた。
また、亡高橋の遺体について、本件事故直後の午後五時四一分と同六時二三分の二回にわたって血液検査がされているが、第一回目の血液のpH値は、6.938L、第二回目のそれは6.992Lであり、いずれも酸欠の傾向を示すものであった。
4 本件汚水槽内の酸欠の発生のメカニズム
証拠(甲三の1ないし3、一三の2の3、乙一一の2、二五の1、三三の4、丙一〇、証人伊東、被告ふじい管工店代表者)によれば、次の事実が認められる。
本件汚水槽に流入するワイシャツ等の水洗いに使用した洗濯排水中には、洗濯糊などの有機物が混入していたこと、本件清掃を開始する直前の本件汚水槽内の汚水の水面は乳白色であったのに、亡高橋が転倒していた際の本件汚水槽内の汚水は、黒色でヘドロ状の汚泥がむき出しになっていたこと、本件事故直後、亡高橋が着ていた衣服から強い汚泥のような悪臭がしたこと、亡高橋が本件事故に遭った後の本件汚水槽の側には、本件汚水槽内から取り出された雑介物が入ったバケツが置いてあり、また、超高圧洗浄車に接続されたホースが本件汚水槽内に高圧洗浄の装置が作動したままで本件汚水槽内に入れられていたことが認められる。
右認定事実によれば、亡向井及び亡高橋の作業により本件汚水槽内の汚水ないしヘドロ状の汚泥は相当程度攪拌されたものであると推認できるところ、右認定事実に微生物は人の数倍から最高六〇〇〇倍の酸素消費量を持っていること(乙三三の4)をも併せ考えれば、本件汚水槽内の汚水が排出され、ヘドロ状の汚泥がむき出しになると同時に、本件汚水槽内の嫌気性細菌などが亡高橋らの持参したポンプにより汚水の汲み上げないし超高圧洗浄をした際に攪拌され、本件汚水槽内の空気に触れることにより、本件汚水槽内の空気中の酸素を急激に消費し、約六パーセントという低酸素状態が惹起されたものと推認される。
5 以上1ないし4の本件事故の状況、本件事故後の本件汚水槽内の状況、亡高橋の遺体の状況、本件汚水槽内の酸欠の発生のメカニズムに照らすと、亡高橋は、本件汚水槽内に立ち入った際、酸素濃度六パーセントという低酸素状態にある空気において呼吸したため、不可逆的な酸欠状態に陥り、酸欠により死亡したものと推認するのが相当である。
6 テトラクロロエチレン死因説に対する検討
(一) 原告らは、テトラクロロエチレン死因説の根拠として、本件汚水槽内にあった汚水からのテトラクロロエチレンの検出の事実、伊東医師が亡高橋の死因について有機溶剤中毒の疑いがあると診断したことなどを指摘する。
(二) たしかに、前記前提事実(7(一))によれば、本件事故直後本件汚水槽の汚水から一リットル当たり一三ミリグラムのテトラクロロエチレンが検出されたことが認められる。
しかし、証拠(甲一三の2の3、乙一の3、一六の2、二六)及び弁論の全趣旨によれば、前記前提事実4(二)(三)記載の亡高橋の脱力、転倒の症状が現れるのは、吸引するテトラクロロエチレンが二〇〇〇ppm程度の濃度であることを必要とすること、本件汚水槽内の汚水の温度は二一度前後であったところ、テトラクロロエチレンの水に対する溶解度は、摂氏一〇度から二〇度において一リットル当たり約一五〇ミリグラムであること、前記前提事実7(一)記載のとおり、本件事故の翌日、本件汚水槽内の汚水を攪拌した上で採取した気体からはテトラクロロエチレンが検出されたものの、その濃度は不明であったことが認められる。
右認定事実に照らすと、本件汚水槽内の汚水に一リットル当たり一三ミリグラムのテトラクロロエチレンが含まれていたとしても、亡高橋が本件汚水槽内に立ち入った時点において本件汚水槽内の空気中に、同人が立ち入ってすぐ体調の不具合を訴え、脱力、転倒してしまう程の高濃度のテトラクロロエチレンが存在していたと認めることは困難である。
(三) また、証拠(甲五)によれば、亡向井が本件事故当時着用していた作業着をゴミ袋に入れ、その中の空気を分析したところ、濃度三六ppmのテトラクロロエチレンが検出されたことが認められる。
しかし、前記前提事実(7(一))、証拠(甲八の10)及び弁論の全趣旨によれば、右作業着は、亡向井が身につけた状態で本件汚水槽内の汚水に約四五分間浸かっている状態のものであったこと、右作業着が浸かっていた汚水は、一リットル当たり一三ミリグラムのテトラクロロエチレンを含む汚水であったことが認められる。
右認定事実に照らすと、亡高橋が本件汚水槽内に立ち入った時点において、本件汚水槽内の空気中に高濃度のテトラクロロエチレンが存在していたと認めることは困難である。
(四) 伊東医師は、前記前提事実(6(一))記載のとおり、亡高橋が有機溶剤中毒で死亡した疑いがあると診断した。その根拠は、証拠(甲八の9、10、証人伊東)によれば、診察の際亡高橋の体から有機溶剤の臭いがしたこと、素手で亡高橋の着ていた作業着を触った際手がひりひりしたこと、亡高橋の左下肢背後には化学熱傷様の発赤があり、同人が死亡した後その背部に広範な水疱ができ、表皮が容易に剥がれたことであることが認められる。
しかし、証拠(乙一六の2、証人伊東)によれば、テトラクロロエチレンは人体に特に有害な影響がない五〇ppm程度の濃度で臭気を感じることができること、伊東医師が感じた有機溶剤の臭気は、臭いが強くてつらいという程度ではなかったことが認められる。そうだとすると、有機溶剤の臭いがした事実自体から直ちに亡高橋が高濃度のテトラクロロエチレンを含む空気にさらされていたことを推認することは困難である。
また、伊東医師が素手で亡高橋の着ていた作業着を触った際、手がひりひりしたことも同様にそれだけで高濃度のテトラクロロエチレンを含む空気にさらされていたことを推認することはできない。
さらに、前記(三)の事実に証拠(乙一の3、一六の2)及び弁論の全趣旨を併せ考慮すると、亡高橋は作業着を着用したまま本件汚水槽の汚水内に約四五分間浸かっていたこと、右亡高橋が浸かっていた本件汚水槽内の汚水に含まれていたテトラクロロエチレンの濃度は一リットル当たり一三ミリグラムであること、テトラクロロエチレンが直接、長期間皮膚に接触すると、皮脂脂肪が除去されるため皮膚炎を起こし、後に発赤や水疱形成が見られることが認められる。
右認定事実に照らすと、亡高橋の化学熱傷様の発赤、背後の水疱等は、本件汚水槽内の汚水の影響によるものと推認できるものの、亡高橋が本件汚水槽内に立ち入った時点において、本件汚水槽内の空気中に高濃度のテトラクロロエチレンが存在していたことまで推認することはできない。
さらに付言するならば、証拠(証人伊東)によれば、伊東医師が亡高橋を診察した際、念頭に置いていた有機溶剤は、テトラクロロエチレンではなく、トリクロロエチレンであったことが認められるのであり、伊東医師が本件事故直後、亡高橋の死因について、有機溶剤中毒であると判断したとしても、そのことから、直ちに亡高橋の死因をテトラクロロエチレン中毒死又は中毒による意識喪失後の溺死であると推認することはできない。
(五) 以上の認定判断に加え、証拠(甲八の1ないし27、九の2、乙一六の2)及び弁論の全趣旨によれば、高濃度のテトラクロロエチレンを吸入した場合、肺に肺水腫、うっ血や出血性肺炎が生じうること、しかるに亡高橋にはそのような所見は認められなかったこと、亡高橋は、平成六年三月一七日午後五時四一分と午後六時二三分に血液検査をしているところ、その結果から有機溶剤中毒を示すものはないことが認められることをも勘案すると、原告らの主張するテトラクロロエチレン死因説は理由がなく、採用することができない。
7 塩素ガス死因説に対する検討
(一) 原告らは、塩素ガス死因説の根拠として、ボイラー及びドレンタンクの清掃作業が行われていたことを前提に、その清掃作業には塩酸が使用されており、本件汚水槽内の漂白剤と反応して塩素ガスが生じたものであると主張する。
(二) 証拠(乙一三、一四の2、一五の1、証人石﨑)によれば、次の事実が認められる。
被告白洋舎千葉支店工場(新工場)では、本件事故発生当日の平成六年三月一七日は、総務部門の従業員九名、営業部門の従業員五名が出社していたが、工場は全面休業日で稼動しておらず、工場の従業員は、一人も出社していなかった。したがって、三月一七日は、工場のボイラー及びドレンタンクの清掃も行われていなかった。
そうだとすると、そもそも本件汚水槽内に塩素ガスを生じうる物質が流入するという前提が欠けることになる。また、本件全証拠を検討するも、塩素ガス死因説を認めるに足りる証拠はなく、結局、原告らの主張する塩素ガス死因説は理由がなく、採用することができない。
二 争点2について
この点に関する原告らの主張は、亡高橋の死因がテトラクロロエチレン又は塩素ガスによる中毒死又は中毒による意識喪失後の溺死であることを前提としているところ、前記一で認定判断したところから明らかなように、右原告らの主張は理由がない。そうだとすると、争点2についての原告らの主張は、その余の点を判断するまでもなく理由がない。
第四 結論
以上によれば、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官難波孝一 裁判官足立正佳 裁判官内野宗揮)